公的医療保険による歯科矯正治療について  

 

子どもたちの健康上の問題(社会的・身体的・精神的),よりよい生活機能(身体機能)や 外見上の問題(社会参加・制約・自尊心)を解決することは,我が国の歯科医療従事者,とくに歯科矯正専門医にとって共通の願いです.

 医療の歴史の中で,歯列矯正という歯並びや顔貌への医療(理論や技術)は普遍性を持つ価値であるのに対し,その制度(医療提供体制)はそれぞれの国家や地域の文化・思想・歴史背景の中で培われてきました.グローバル社会となった現代においても,健康に対する文化概念や価値は多様であり,それぞれの国家,地域においても優先順位は様々です.

 子どもの歯科矯正 への公的医療保障の国際比較(OECD加盟国 2016)
 ヨーロッパ諸国における歯科矯正医療の公的医療保障の現状(2010)
 米国における歯科矯正の公的医療保障.「医学的に必要な歯科矯正」基準

 歯並びや顔貌は,生きる上での健康,文化的,安寧,平穏,安心な生活を送りたいという人々の普遍的願望の中で,「心の問題(精神的)」,「体の問題(肉体的)」,そして「外見上:人の視線という痛み(社会的 Social handicap)」 に影響を与え,well-being の問題であることは広く世界的にも認知されています.

 

「健康とは,病気でないとか,弱っていないということではなく,肉体的にも,精神的にも,そして社会的にも,すべてが満たされた状態 well-being にあることをいいます.WHO憲章:日本WHO協会訳)

あるいは

「健康とは,人生における社会的,身体的,感情的な課題に直面したとき,適応し,自らの方向性を見定めることができる能力」 とする positive health の新しい健康概念もあります.Huber M, et. al. How should we define health? BMJ 2011 Jul 26;343:d4163.

  日本における健康概念の歴史

 

 一方,わが国の歯科矯正という医療分野はまだ歴史が浅く,文化背景からその社会的価値や医療概念に関する側面では西洋諸国とは大きく異なる価値感が未だ伝統的な慣行として残っています.グローバル社会の現代においては喫緊に是正すべき課題ではありますが,日本に生まれた子どもたちには,口腔や顎顔面の健やかな成長発育に関する必要な医療,「歯の位置異常という疾病」,「外見上の問題 Social handicap:人の視線という痛み; 醜」 を改善することへの社会経済的障壁が存在し,すべての子どもたちが歯科矯正医療へ公平にアクセスできない社会状況が続いています.

 明治期に西洋歯科医学が伝来導入され,戦後の国民皆保険制度(1961)を経て,社会状況変化・国民生活や文化意識の向上によって,はじめて歯科矯正に公的医療保険が適用されたのは「唇顎口蓋裂の歯列矯正治療(1982)」でした.☛ 口蓋裂と矯正歯科―その保険導入の前後 その後,「顎変形症(1990)」など,保険適用は範囲拡大され(下表),今日では▲以下の63疾患に起因する不正咬合や顔貌の改善▲学校健診で歯列矯正の受診勧奨を受けた場合の相談料・検査料など へと法令整備されてきました.受診証明書が必要な場合はお申し出ください.

 しかし先に述べたように,ヨーロッパ諸国や米国と比較すると,非常に大きな相違を見出すことができます.われわれ医療提供者側も,大変残念なことではありますが,費用負担の面から治療開始を断念される患者さまには日常的に何度も接しており,すべての人々が適切で基礎的な口腔の保健医療サービス(歯科矯正)を,必要なときに負担可能な費用で享受できるような社会が実現するよう健康の社会的決定要因が喫緊に是正されることを望んでいます.

 どうぞわが国の現状につきまして,ご理解頂きますようお願い申し上げます.

   ☛ OECD諸国における歯科矯正への公的医療保障制度の概要(2016)
   ☛ ヨーロッパ諸国における歯科矯正医療の公的医療保障の現状(2010)
   ☛ 米国における歯科矯正の公的医療保障.「医学的に必要な歯科矯正」基準

 

― 日本の公的医療保険の流れ  歯科矯正に関するもの

大正11 1922年 (旧)健康保険法

昭和13 1938年 (旧)国民健康保険法

昭和20 1945年 終戦

昭和22 1946年 WHO憲章(健康の定義)

昭和26 1951年 世界保険機関(World Health Organaization=WHO)加盟

昭和31 1956年 国際連合(United Nation=UN)加盟

昭和33 1958年 国民健康保険法の制定

昭和36 1961年 国民皆保険の実現

昭和48 1973年 70歳以上の医療費が無料に(自己負担ゼロ)

昭和50 1975年 第76回国会 衆議院 社会労働委員会 第1号 昭和50年11月11日

             兎唇口蓋裂に対する健康保険診療範囲の拡大に関する請願(第1497号)

昭和51 1976年 第82回国会 参議院 社会労働委員会 第2号 昭和52年10月25日

             口唇裂・口蓋裂児の医療に関する件

昭和53 1978年 医療法改正により,標榜診療科 「矯正歯科」 「小児歯科」 の追加

昭和57 1982年 唇顎口蓋裂の保険導入

   ☛ 口蓋裂と矯正歯科―その保険導入の前後

   ☛ 谷間の口がい裂児:この子らに健保を

昭和58 1983年 老人保健法の施行

昭和59 1984年 職域保険(被用者保険)本人の自己負担1割

  そしゃく機能障害 ☛ 第101回国会 衆議院 社会労働委員会 第30号 昭和59年8月1日

平成02 1990年 顎変形症の保険導入

平成06 1994年 子ども権利条約に批准・発効United Nations Children's Fund(UNICEF=ユニセフ)

平成07 1995年 学校歯科健診に歯並びの項目が追加

 1990年以降,歯科矯正医療への保険適用の拡大(疾患の追加)に注目すべきである.追加された疾患の発現頻度から,歯科矯正への適用人数はおそらく数名に過ぎず,これを拡大として国民への公平な医療配分の充実が図られているとは言い難い.
 学会や認定医制度の乱立により,1980年代の英国に酷似した状況が続いたが,この間に,西洋諸国では歯科矯正への公的医療保障改革が進み,わが国の状況はずいぶんと遅れた状況になった.☛ 各国の状況

平成08 1996年 顎口腔機能診断施設基準の追加

平成09 1997年 同自己負担2割

平成14 2002年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

平成15 2003年 同自己負担3割

平成16 2004年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

平成20 2008年 後期高齢者医療制度始まる

            別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

平成22 2010年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

平成26 2014年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

平成27 2015年 医療保険制度改革法が成立

平成28 2016年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

             (国民健康保険への財政支援の拡充、

              入院時の食事代の段階的引き上げ、

              紹介状なしの大病院受診時の定額負担の導入などが盛り込まれた)

平成30 2018年 国民健康保険の財政運営が、市町村から都道府県単位に変更

             別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

            前歯3歯以上の永久歯萠出不全に起因した咬合異常(埋伏歯開窓術を必要とするものに限る。)

令和02 2020年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

令和04 2022年 別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

令和06 2024年 学校歯科健診後の検査・分析・診断の保険適用

            咀嚼能力,咬合圧検査の顎変形症患者への適用

            別に厚生労働大臣が定める疾患の追加

 

参考 ☛ 「子どもの歯科矯正」 への公的医療保障の国際比較(OECD加盟国)

 

 

【歯科矯正に公的医療保険の適用される場合】 註: 2022年現在.青字は法令改正による導入年度

 

  学校健診で歯列矯正の受診勧奨を受けた場合の相談・検査・診断(文書提供)

            「歯・口腔の健康診断のお知らせ」  を必ずお持ちください.

  別に厚生労働大臣が定める疾患に起因した咬合異常

  前歯及び小臼歯の永久歯のうち3歯以上の萌出不全に起因した咬合異常(埋伏歯開窓術を必要とするもの)

平成30年(2018)改訂により追加, 令和4年(2022)改訂により「小臼歯」を追加.

  顎変形症(顎離断等の手術を必要とするものに限る。)

平成02年(1990)改訂により追加

平成08年(1996)改訂より顎口腔機能診断施設基準が追加

平成20年(2008)改訂により実態に即した評価をおこなうため,

           歯科矯正診断料に係る診断を行う時期として,

           「一連の歯科矯正治療における顎切除等の手術を実施するとき」を追加.

 

 ① の「別に厚生労働大臣が定める疾患」は,令和4年度の診療報酬改定によって,下記61疾患まで拡大整理されています.

 

 

別に厚生労働大臣が定める疾患とは、次のものをいう。

 

 

※各疾患の発現率/ 有病率は,

 公益財団法人 難病医学財団 難病情報センター

 国立研究開発法人 国立成育医療研究センター内 小児慢性特定疾患情報センター

 関連学会web,その他の論文より引用.

 

昭和57年(1982)改訂により追加
(1) 唇顎口蓋裂                                             400-600人に1人

     (口唇裂34.5%,口唇口蓋裂45.0%,口蓋裂20.5%)

 

平成14年(2002)改訂により追加
(2) ゴールデンハー症候群(鰓弓異常症を含む。)    3千~5千人に1人の割合
(3) 鎖骨頭蓋骨異形成
                                   117人(亀谷ら,1980)100万人に1人
(4) トリーチャ・コリンズ症候群
                  5万人に1人の頻度
(5) ピエール・ロバン症候群
                                130人(久保ら,1971
(6) ダウン症候群 
                                            出生数2,200人前後/年(佐々木ら,2019
(7) ラッセル・シルバー症候群
                               約500~1,000人(2009年調査)

 

平成16年(2004)改訂により追加
(8) ターナー症候群
(9) ベックウィズ・ウイーデマン症候群
            218名(H21年度調査)
(10) 顔面半側萎縮症

(11) 先天性ミオパチー
平成20年(2008)改訂により追加    約1,000人
(12) 筋ジストロフィー平成22年(2010)改訂により追加       約25,400人
(13) 脊髄性筋萎縮症平成30年(2018)改訂により追加  10万人に1~2人

 

平成20年(2008)改訂により追加
(14) 顔面半側肥大症
(15) エリス・ヴァンクレベルド症候群
                   推定200~300名
(16) 軟骨形成不全症
(17) 外胚葉異形成症
(18) 神経線維腫症
                              推定40,000人(3千人に1人)
(19) 基底細胞母斑症候群
                        4千人に1人
(20) ヌーナン症候群                              520人(平成22年調査
(21) マルファン症候群
                             2万人()
(22) プラダー・ウィリー症候群
                        1万~1万5千に1人
(23) 顔面裂
(横顔裂、斜顔裂及び正中顔裂を含む。)

 

平成22年(2010)改訂により追加
(24) 大理石骨病                                 約100人
(25) 色素失調症
                                 約2,500人(10万人出生に1人)
(26) 口腔・顔面・指趾症候群
                       推定25万人に1人(口蓋裂患者100例に1例)
(27) メビウス症候群
                                推定10万人に1人(5万人に1人)
(28) 歌舞伎症候群
                                約4,000名(推定罹患率1/32,000)
(29) クリッペル・トレノネー・ウェーバー症候群
        有病率は不明.1,000症例が報告
(30) ウイリアムズ症候群
                            2万人に1人
(31) ビンダー症候群
(32) スティックラー症候群
                           約12,000人(1万人に1人)

 

平成24年(2014)改訂により追加
(33) 小舌症
(34) 頭蓋骨癒合症
(クルーゾン症候群及び尖頭合指症を含む。)
(35) 骨形成不全症
(36) フリーマン・シェルドン症候群
                      100例以上の報告あり
(37) ルビンスタイン・ティビ症候群
                       100~200名
(38) 染色体欠失症候群
(39) ラーセン症候群
                                35例(10万人に1人)
(40) 濃化異骨症
(41) 6歯以上の先天性部分無歯症

 

平成26年(2016)改訂により追加)
(42) CHARGE症候群                             2万分の1程度(平成21年度研究)
(43) マーシャル症候群
(44) 成長ホルモン分泌不全性低身長症
(45) ポリエックス症候群
(XXX 症候群、XXXX 症候群及び XXXXX 症候群を含む。)
(46) リング 18 症候群

 

平成28年(2018)改訂により追加
(47) リンパ管腫
(48) 全前脳胞症
                                  推測1万人に1人
(49) クラインフェルター症候群
                         62,000人(男性のみ)
(50) 偽性低アルドステロン症
                         稀,有病率は不明
(51) ソトス症候群
                                 2,500人
(52) グリコサミノグリカン代謝障害(ムコ多糖症)

 

令和2年(2020)改訂により追加
(53) 線維性骨異形成症
(54) スタージ・ウェーバ症候群
(55) ケルビズム
(56) 偽性副甲状腺機能低下症
(57) Ekman-Westborg-Julin 症候群
(58) 常染色体重複症候群

 

令和4年(2022)改訂により追加
(59) 巨大静脈奇形(頸部口腔咽頭びまん性病変)
(60) 毛髪・鼻・指節症候群
(Tricho-Rhino-phalamgeal症候群)

 

令和06年(2024)改訂により追加

(61) クリッペル・ファイル症候群(先天性頸椎癒合症)
(62) アラジール症候群

(63) 高IgE症候群
(64) エーラス・ダンロス症候群
(65) ガードナー症候群(家族性大腸ポリポージス)

 

平成30年(2018)改訂により追加
(66) その他顎・口腔の先天異常

 

8 7の(61)のその他顎・口腔の先天異常とは、顎・口腔の奇形、変形を伴う先天性疾患であり、当該疾患に起因する咬合異常について、歯科矯正の必要性が認められる場合に、その都度当局に内議の上、歯科矯正の対象とすることができる。

 

9 別に厚生労働大臣が定める疾患に起因した咬合異常に対する歯科矯正の療養は、当該疾患に係る育成医療及び更生医療を担当する保険医療機関からの情報提供等に基づき連携して行われる。

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